かいじろう作品保存会編集


かいじろうに寄せる 夭折した 原 貝次郎君へ

薔薇の群像 / 植村鷹千代

原貝次郎君を識っている人にとっては、この画集はかけがえのない貴重な思い出の記念品になるにちがいない。 私も原君のピンクのポエジーを描いた美しい小品「早春」を1点もっている。それは櫟画廊での第二回個展のときであったが、原君のピンクのポエジーは純粋に美しい画面であったので、私は、当時中学校に通っていた娘の誕生祝いにしてやろうと思って同君に所望したものであった。その絵がもう今日、思い出の記念品になるとは夢にもおもわなかったのであるが、いまでも娘の部屋の壁にかけられてあって、ピンクのリリシズムの香りを放ちつづけている。

いま作品年譜を調べてみると、この「早春」という作品は、この画集に原色版で掲載されているピンクのハートの雪が降っている美しい小品「春の風景」(1960年3月、当時27才)「メロディ」などと同時期に描かれたもので、同年8月に長女のMIKAさんが誕生して「MIKA.(同年9月)が制作されることになるから、若い原君としては、もっとも精神の平和と心の幸福に恵まれた時期であって、彼の生来のリリシズムやロマンチシズムがもっとも素直に生気一杯に迸しり出たのであろう。その証拠にこの時期の作品が小品でもいちばん純化されていて、簡潔な表現のなかに幸福が一杯つめられ、格調の高いリリシズムが歌われていて、原君の代表的な傑作群がみられるのである。しかも、この時期の香り高い作品群は、それから半年先に再び病にたおれ、遂に29才の若さで永眠した同君の作品年譜では、同時に晩年作となってしまったのである。

しかし、幸福を一杯に表現した傑作群を描きあげた後にはかなく散った彼は、ある意味では、死にかたまでロマンチックで、最後まで幸福な青年芸術家であったともいえるであろう。

画集の出版にあたって、彼の遺作を拝見したら、最初から非凡な資質を絵に示しているのを発見して、惜しい作家だったとめて痛惜の想いに襲われた。原君は音楽も好きだったらしいが、本来詩人であって、何百編かの詩を書きのこしており、その稿が整然と自分の手で整理してある。詩は殆どが愛情を歌った詩であって、病弱な青年にありがちな暗い影のなかった人らしい。あるいは、それほど彼は愛情に恵まれていたのかもしれない。

清純で、潔癖で、神経質で、ロマンチックではあったようであるが、珍らしくニヒルな暗さは持ち合せていなかったようである。

原君は、生来、幸福を夢みるピンクの詩人であったようである。絵の上でも、ピンクは彼の基調色として発展している。絵は1951年、彼が18才の頃から描きはじめたようであるが、この画集に入っている「武蔵野の町」「宗岡小学校」(1956年)などではまたピンクの主調は出ていないけれど、これの風景画にも繊細な感覚と清潔な細かいタッチで詩情豊かな風景になっていて、作者の心の眼がリリカルでロマンチックなものを探し出す資質に恵まれていることをすでに実証している。

1957年、彼が25才のとき、二科会会員の斉藤三郎氏に師事することになり、翌年の1958年には、第43回二科展に「十七才」が初入選しており、このあたりから本格的に制作が進展してきているが、同時に、愛の詩人が愛の歌をひたすらに描き上げてゆく。「生への誘ひ」(1957年)あたりから愛の歌はかなり強い調子で歌いはじめられているが、二科に初入選した「十七才」はどういうわけか、多少メキシコ風の粗い変形と強調の技法が混っている。強い表現を意図したのであろう。

「華と群れ」(1959年)・「愛のモニュマン」(1959年)・「薔薇の群像」(1959年)になると、ピンクの主調はもうまぎれもなく確立されているが、この頃の彼の歌の特長は、画面が華やかで、構成的な大作が多く、タッチも彼の作品のなかでは、もっとも力動的で力強い調子をみせていることであろう。これは彼の青春がもっとも情熱的な昂揚を示したことであるかもしれない。この時期のピンクの画面はけっして静かではない。詩的ではあるが、愛情表現にはむしろ生理的ともおもわれる情熱と幻想が織りまざって、シュールレアリスチックとさえ感じる妖美な表情をみせている。「華と群れ」や「薔薇の群像」あたりにこの表情がよく出ているとおもう。

だが翌年の1960年に描かれた「あけぼの」や「くらし」という系列の作品は急にセイソで簡潔な抽象的な画面に変ってる。力動的な要素は後退して動を内にかくした淡白で、澄んだ画面が現われている。その代り、作品にはきびしいリリシズムが立しはじめている。

これは結婚によって作者の心境が安定したことに関係することかもしれない。このあたりから原君の絵は、表面からは強い表情をかくしてしまう代りに、画面の秩序は一層澄明にかつきびしさを加えながら、安定したユニイクなスイルの確立に向かって5ゆき、それが、最初に述べた晩年作の系列となって実現され、珠玉の佳品群をのこすことになった。私にはこのように回想されるのである。

こう回想してみると、原貝次郎という青年芸術家も、その作品も、今日の現実を考え合わせてみると、得難い異色の存在でったことがわかる。芸術も生活もとかくトゲトゲしく粗暴になりがちな今日、あまりにもロマンチック、あまりにも詩的だと人はいうかもしれないが、それだけ彼と彼の芸術の存在は異色で貴重であるといえるのである。しかも、ただ異色であるがたに貴重だというのではなく、私は、原貝次郎の異色な才能と資質に発したその作品を高く評価していることを最後に確言してきたい。芸術の本質は魅力にあるが、純粋な自由、純粋な素直さは、芸術の魅力の本質につながる。原君の絵はそういう魅力をもっているからである。

植村鷹千代 ( うえむらたかちよ) 明治44年(1911)奈良県に生まれる。大阪外国語学校(現大阪外大)卒。前衛美術の評論を中心に活躍。1922年日本アバンギャルド美術家クラブに参加、46年アマチュア美術家団体サロン・デ・ボザールの会長となって前衛美術の評論を中に活躍した。
平成10年(1998)逝去。